lac quan 2009年4月

高谷静治氏(特定非営利法人アートセラピー研究所NPO-DAM)からのお言葉


 今日もまた、劇場に足を運ぶ。それにしても夥しい数のダンスやバレエが生み出されているものだと思いながら、薄暗い空間に自分の居場所を求める。しかしながら「今日こそ………」という気持ちは99パーセント裏切られてしまい、大概は時間を浪費したという感覚で家路を急ぐことになります。それでは私達はなぜダンスやバレエを観にいくのだろうか?

 あらゆるものが瞬く間に過ぎる。舞台も、そこで行われるダンスもそこに居合わせる自分も例外ではない。イサムノグチの言葉を借りて言えば、「(略)すべてが瞬く間に過ぎ去ってゆく。ただ、できるのは過ぎ去ってゆく瞬間、瞬間の物事をとらえ、これこそ真実だと主張すること」。私達は、そのようなダンスの現場に居合わせたいと願っているのだ。

 宮下恵美子さんプロデュースのダンス「ラク・クゥアン」を観た。タイトルは意味不明なれど自分なりに波紋、風紋、声紋などのイメージを受け止めた。

 振付者から振付けられた動きを木偶のように動くダンスほどつまらないものはないが、この夜のダンサーと演奏家はそれぞれ自らの内なる声を次第に高めていく振幅が、観る側の振幅に共鳴して、まるで疾走するメリーゴーラウンドに乗り込んだ思い。<至上の身体>を用いた表現者たちは<選ばれてあることの恍惚と不安>を丸ごと背負い、佇立や飛躍、そして投地を繰り返すことによってあらゆるものが過ぎ去る時間の相貌をとらえようとし、身につけているすべてを剥ぎ取って大地に身を投げ出し、自分の身体という不確かな存在と時間を重ねることによって見えてくる美を追い求めているようだ。

 身体に込めた沈黙と饒舌によって地軸の逆転現象を生起させ、ダンスの場に居合わせたものと、創る側が逆転し、時空の感性や感覚的存在が消えてしまう幸運な1パーセントを垣間見た夜になった。

 私たちはダンスやバレエから何かを学ぼうとしてはいけません。どこにでもある薄暗い劇場という空間をのぞいて、自らの内なる声に耳をひそめるのです。そしてそこで身体と大地、宇宙は一つのものであることを感じ取れば良いのです。

 今宵もまた劇場へ。








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