宮田徹也氏(日本近代美術思想史研究)からのお言葉
床には8cm程の矩形に切られた新聞紙が山になったり、置かれていない場所があったりと恣意的に散乱している。衝立が左右に二箇所ずつ設けられ、それぞれの足元にライトが一つずつ転がる。
無音の中、同じ衣裳の立花あさみ、長沼陽子、江角由加が中央に並んで座る。三者はそれぞれに横に捩れ、腰を床につけたまま動き出す。肩と腕を揺らめかせ、時には互いの手を繋ぐ。足が解れても列に乱れは生じない。
三者の位置は、線から円となる。円はそれぞれが床を展開することによって、面と化していく。擦る、振る、吹き込む音が、微かに聴こえてくる。
光の増幅により、面は立体に展開する。三者の腕の振付は、腕とはこれ程の長さがあるものかを教えてくれる。
立ち上がって舞う三者は、緩急をつけた足の運び、腕の動きに特徴があり、それはオリジナルなきそれぞれのヴァリエーション、若しくは一人が実体で他の二者が虚無となる錯覚に満ちている。
素早い動きの中にも手首、踝の使い方が印象的だ。この作品の動機となっているのはこれではないだろうか。
眼を合わせない三者は次々と腰を着き、開始時と反対方向に体を向ける。各々腰に巻いていたショールを胸に巻きつける。その姿もまた三者三様である。順序良く体を捻っていく。再び三者は線から点になる。
寒河江勇志によるアコーディオンが鳴り響く。三者は腰を着け脚によって移動する。その際の首と肩が記憶に残る。次々と立ち上がる。
「音」とはリンクしない。「音階」に触れているのだ。
三者は感情を表出する。それに物語性はない。しかし身体の機械的動作でもない。
三者は揺らぎ、体を傾けていく。腕と腕とが絡み合う。金属を叩く音が聴こえる。三者は水平から垂直へ、面の形成の過程を抜かし、立ち上がる。
新聞紙は黒い会場に対し、「温かい」イメージを生み出している。白い紙では強く、和紙では硬すぎる。新聞紙の持つ柔らかさがここに相応しい。
肉の弾力の強さを見せるようなダンスが繰り広げられ、金属と木片のパーカッションが鳴り響く。
音楽の時間軸ではなく「リズム」という概念に対して構成されている音が止むと三者は背を向け、沈黙する。ショールを外し、そのまま座り込む。上体が傾いていくと、SAXが唸りを上げる。
照明は壁面のみを照らし、三者は膝を立て、離別する。それぞれがショールを顔にかけると、暗転し、65分の公演は終了する。それでも、音にならない音が微かに聴こえる気がしている。